中津万象園沿革
貞享5(1688)年、丸亀藩京極家二代目藩主京極高豊侯により、ここ中津の海浜に中津別館として築庭される。
白砂青松の海浜に続いて1500余本の矮松を植え、庭の中心には京極家先祖の地である近江の琵琶湖を形どった八景池を置く。近江八景になぞらえて、帆、雁、雪、雨、鐘、晴嵐、月、夕映と銘した八つの島を配し、その島々を橋で結んだ回遊式の大名庭園である。湖畔には、庭園内から海まで一望できたという中二階の茶室・観潮楼と母屋が設けられている。また、母屋南庭には枝葉の直径15m余り、樹齢600年といわれている〔天下の名松〕の呼称にふさわしい大傘松がある。万象園は森羅万象、即ち宇宙に存在するすべてのものを意味し、それらを合わせ持つ名園といわれる。
庭園マップ
邀月橋(ようげつばし)
月を迎えるという意味があり「中秋の名月」にはこの太鼓橋の上より鶺鴒渓(せきれいけい)上方に浮かぶ見事な月を迎えることができる。
大傘松
樹齢約650年と言われる一本の松が直径15mにわたって大きく傘を広げた形をしている。昭和58年、園内の松林とともに「日本の名松100選」に指定。
観潮楼
1781(安永10)年、5代藩主京極高中の時代には既に存在が確認される記述が残る、現存日本最古の煎茶室。名前の通りここから瀬戸内海の潮の満ち干きの見える茶亭であった。母屋とともに丸亀市指定文化財。
稲荷社と鳥居回廊
京都伏見稲荷より勸請した稲荷社。京極家大名庭園の時代より、この地にあったと伝わる。その後荒廃していたが、昭和57年に復元。令和元年には園南端の竹林に稲荷社へ続く鳥居回廊を整備、「願いが通る」パワースポットや、幽玄な情景のフォトスポットとして注目を浴びている。
石投げ地蔵尊
その昔この地にあって霊験あらたかな地蔵菩薩として漁師・農民・商人等の信仰を集め、朝な夕な石塊に祈願事項を記し、この地蔵尊に投入して礼拝していた。
陶器館
白い小石を積み重ね低くおさえて建てられた陶器館は、オリエント地域の雰囲気を盛り込み、松原との調和を保ちながら建築されたものである。館内には今のイラン・イラクを中心として出土した紀元前2500年頃から13世紀頃までの彩文土器や陶器・ガラス器などを展示している。
絵画館
大名庭園の景観にあわせて平屋建数寄屋風に建築された美術館。自然を愛し自然に没入したフランス自然主義絵画を代表する、ミレー、コローをはじめとするバルビゾン派画家や、バルビゾンに滞在し影響を受けた写実主義画家・クールベの絵画を展示している。(なお、特別展開催期間中は、バルビゾン派の作品は展示しておりません。)
庭園の歴史
京極氏は宇多天皇の皇子敦実親王(あつみのみこ)を始祖とする近江源氏佐々木氏が祖と伝えられる。
鎌倉幕府の近江守護職を務めた婆娑羅大名・高氏(たかうじ・導誉(どうよ))から11代目の高次(たかつぐ)は関ヶ原の役で東軍に加わり、若狭小浜城を賜った。長男忠高(ただたか)が将軍秀忠の娘初姫(はつひめ)を迎えて出雲隠岐26万石の松江城主となったが、嗣子がいないため甥の高和(たかかず)が後を継ぎ、万治元(1658)年に京極家初代藩主として丸亀城へ入った。「万象園」の築庭は2代藩主高豊(たかとよ)によるものである。
京極家略図
丸亀城年表
- 1597(慶長2年)生駒親正・一正父子、丸亀城築城に着手する。
- 1645(正保2年)幕府の命により丸亀城の絵図を提出する。(正保城絵図)
- 1658(万治元年)京極高和、丸亀藩主となる。石高6万67石。
- 1660(万治3年)丸亀城天守完成する。
- 1670(寛文10年)丸亀城大手門を南から北の現在地に移す。城内屋敷の建設。
- 1688(貞享5年)下金倉村の海浜の中州へ京極家別館をつくる。(現中津万象園)